北海道の企業

2022年08月18日

ニトリ、ツルハ、DCM...トップ企業が続々出現 北海道企業はなぜ強いのか(1)

いま、「北海道企業」が続々日本の小売り業を引っ張る位置に躍進している。ニトリ、ツルハ、DCM...なぜこれほど、北海道から「強い小売り企業」が続出するのか。北海道新聞経済部長を務め、長年業界を取材してきた著者が、その秘密に迫る著書『「北海道企業」は、なぜ強いのか』より抜粋してお届けします。

第1回は、北海道から全国へ。ニトリの大躍進の一端に迫る。

北海道由来の2社による『島忠』争奪戦

日本全体を俯瞰した時、優れたチェーンストアを1番多く輩出している地域はどこだろうか。多くの人は、それがニトリを生んだ北海道であることに気付くだろう。象徴的な出来事が2020年の後半にあった。首都圏を中心にホームセンター兼家具量販店を展開する島忠(本社・さいたま市)を巡って、DCMホールディングス(HD)とニトリHDが繰り広げたTOB(株式の公開買い付け)合戦である。

島忠は1890年(明治23年)、埼玉・春日部でたんす製造業者として創業、家具販売業に転じ、ニトリが台頭するまでは国内トップの家具量販チェーンだった。70年代後半にホームセンターにも参入。61店(20年8月末現在)の大半がホームセンターと家具店の複合型店舗だった。全体の8割超の55店が東京、神奈川、埼玉の1都2県に集中し、首都圏の一等地に数多くの店を持っているのも特徴だ。19年8月期の売上高は1463億円で、19年度のホームセンター売上高ランキング7位。首都圏の消費者には知られた企業である。

その買収に、ホームセンター売上高ランキング2位のDCMHD、ホームファニシングストア最大手のニトリHDが相次ぎ名乗りを挙げたのだ。DCMHDの20年2月期の売上高は4373億円。ホームセンター首位のカインズとはわずか37億円差で、前年の18年度までは10年以上にわたって最大手の座を守ってきた企業だ。 

要するにホームファニシングストア、ホームセンターそれぞれの国内トップ企業が、双方の性格を併せ持つ首都圏の優良企業の買収を争う構図である。

この争いは、DCMHDと島忠の間でいったん合意された経営統合案を、ニトリHDが新たな提案によって覆くつがえして勝利する(20年12月29日、ニトリHD側のTOBが成立、島忠を子会社化)異例かつ劇的な結末になった。

ニトリHDとDCMHDの両社には因縁がある。DCMHDもまた北海道にルーツを持ち、90年代には、互いに切磋琢磨しながら全国制覇を目指した間柄であったという点だ。

06年、北海道のホーマック、愛知のカーマ、愛媛のダイキという各地を代表するホームセンター3社が経営統合した。この3社の持ち株会社として発足したのがDCMJapanホールディングス、現在のDCMホールディングス(10年に社名変更)である。

このころの日本のホームセンターはリージョナルチェーン2しかなく、よく言えば群雄割拠、悪い言い方をすれば"どんぐりの背比べ"が実態だった。その中で先陣を切り〈全国制覇〉〈2015年のグループ売上高1兆円〉を目指し、エリアを超えて手を結んだ3社(各社の頭文字を取って〈KDH連合〉とも呼ばれた)の動向は、関係業界に驚きをもって受け止められた。

壮大な目標を掲げ、KDH3社の統合を仕掛けたのが、ホーマック会長兼社長(当時)の前田勝敏氏(1945‒)である。

前田氏は、ホーマックの前身、石黒ホーマの創業者、石黒靖尋氏(1936-2011)が76年にホームセンター1号店を釧路に出したころから右腕として支え、二人三脚で同社を北海道のトップ企業に押し上げた人だ。

日本列島の東端にあり、仕入れ先から遠い釧路でホームセンターを健全経営するには、緻密な在庫管理が不可欠――。そう考えた前田氏は、80年代前半にイトーヨーカ堂が成果を上げていた〈単品管理〉の導入を思い立つ。

単品管理とは、POS(販売時点情報管理)システムを通じ、商品の売れ行きを文字通り単品ごとに把握する在庫管理技術のことだ。前田氏は06年の私の取材に対し、その原体験を次のように語っている。

釧路でホームセンターを始めたばかりのころ、お客さんの求める小さな部品が1個欠品しただけで、損失が予想外に膨らむという体験をしたのです。長距離電話料金が距離に比例して高くなる時代だったので、釧路から大阪のメーカーに追加注文すると、部品の単価をはるかに上回る電話代がかかってしまった」

「困ったことに、当時の釧路には同業の店がないから、お客さんに他店を紹介することもできないわけです。商品がたった1個足りないということが、お客さんにも会社にも損をさせるんだなあと痛感させられました

ジャスト・イン・タイムの商品供給

イトーヨーカ堂の社員をスカウトして単品管理を学び、90年にはホームセンターとして国内ではじめてPOSシステムを導入した。

「くぎや園芸用の土など、バーコード管理になじみにくい商品が多いためか、メーカーはなかなかホームセンター向けのPOSシステムを開発しようとしてくれなかったですね。だから最初は自分たちで全部の商品にバーコードを付けて実用化しました」とは、社長時代の石黒氏の証言(98年)だ。

売れ筋商品を把握し、品ぞろえに反映できるようになったホーマックは、北海道ナンバーワンのホームセンターとして消費者の信頼を獲得し、95年に本社を札幌に移した。低価格を追求するため、中国を拠点にプライベートブランド(PB)商品の開発輸入に取り組み始めたのもこのころである。

98年には、保管経費が安い台湾に倉庫を借りると同時に、札幌近郊の北広島市内にある自社商品センターの一部を保税地域(保税蔵置場)とする許可を大蔵省(現財務省)から得ている。保税蔵置場の許可を取ったのは、台湾から船便で苫小牧に届いたコンテナを港で開封して通関作業する手間が省けるからだ。コンテナを保税蔵置場に直送し、その場で貨物の点検をすることが税関から認められるので、時間と経費を節約できるというわけである。

こうしてホーマックは、中国で生産したPB商品を台湾で保管し、必要に応じて北海道に送るという物流体制を整えた。

当時、前田氏が口癖のように語っていたのが「ジャスト・イン・タイムの商品供給を追求する」という言葉である。〈ジャスト・イン・タイム〉は、言うまでもなくトヨタ生産方式の代名詞だ。ホーマックは90年代後半、コンピューターを駆使した単品管理によって北海道・東北に展開していた約120店の在庫状況をリアルタイムで把握し、店の商品在庫が一定数を下回ると、商品センターから自動的に補充されるシステムをつくり上げていたのだ。

DCMHDの母体企業であるカーマ、ダイキ、ホーマックの3社は、資本上は対等な形で統合したが、戦略上はホーマックの開発輸入のノウハウと最先端の在庫管理システムを他の2社に広げ、ホームセンターで圧倒的な国内トップ企業になることを目指していた。

社名の〈DCM〉とは "Demand Chain Management" の略称で、消費者ニーズを把握して的確に需要予測を立て、生産と在庫を最適化する経営――という意味合いの業界用語だ。その社名からも〈システム志向型のチェーン運営〉という設立の原点がうかがえる。

突然の退場

ホーマックとDCMHDの足跡には、重要なポイントが2つある。1つはホーマックとニトリのビジネスモデルの類似性である。開発輸入の手法を通じた低価格PB商品の展開、物流と在庫管理の効率化......。先にニトリに関して《製造から販売まで一気通貫で手がけるビジネスモデルと地方企業であるという点には密接な関連性がある》と述べたが、釧路発祥のホーマックがどのようにしてトップ企業になったかを知れば、その一端を理解していただけるのではないか。

もう1つはDCMHD発足時の高い志と現実の落差だ。22年2月期の売上高は4447億円で、〈2015年に1兆円〉の目標に遠く及ばないばかりか、統合直前のKDH3社の合計売上高とそれほど変わっていない。中核3社の経営内容や財務内容がもともと優れており、足し算の効果で国内トップの座を10年以上維持してきたが、本来目指していた圧倒的なトップにはなりきれず、とうとうカインズに追い抜かれてしまった。

DCMHDの業績の伸び悩みは、06年9月の発足とともに社長に就いた前田氏が、わずか8ヵ月余りで退任を余儀なくされたことと無関係ではないだろう。

07年5月10日、東京のとある企業経営者がインサイダー取引(証券取引法違反)の疑いで札幌地検に逮捕された。容疑は、KDH3社の経営統合の情報を発表前に入手した上でホーマックとカーマの株を売買し利益を得たというもの。その情報の入手先が前田氏だったというのだ。

3社の統合が正式に発表されたのは05年7月だったが、企業経営者はその情報を2ヵ月前に前田氏から得ていた。これを基に株を買い付け、発表後の値上がりを見計らって売却して340万円のもうけを得ていたという。

実は、前田氏が事前に情報を伝えた相手はデザイン関係の取引先で、正式発表の際に配布する広報用資料のデザインを依頼するのが目的だった。前田氏に犯意はなく、業務のために伝えた情報が悪用されたことは不運としか言いようがない。それでも事件化してしまった以上、上場会社の社長として言い訳はできなかった。

前田氏は4日後の5月14日、DCMJapanホールディングスの社長を辞任、副社長(カーマ社長)の久田宗弘氏(1946‒)が急遽、後任の社長に昇格した。

前田氏による〈10年がかりの構想の結実〉とも評された3社統合は、その結実から1年もたたないうちに当のリーダーが退場する予想外の展開が待ち受けていた。"Do Create Mystyle" (くらしの夢をカタチに)――。現在、DCMグループの店舗に掲げられているキャッチコピーだ。買い物客の多くは、このいま一つ面白みに欠けるコピーを社名の由来だと思っていることだろう。前田氏が去り、DCMHDの経営が方向舵を失ってしまったことは否めない。

一方、志半ばで表舞台を去った前田氏に、真っ先に手を差しのべた人がいた。ニトリ社長(当時)の似鳥昭雄氏(1944‒)である。

「前田さん本人が刑事責任を問われたわけではない。あれだけの人をそのままにしておくのはいたましいでしょう(〈いたましい〉は北海道の方言で〈もったいない〉の意)」。側近の助言に「その通りだ」と考えた似鳥氏は「ニトリが世界に目を向ける上でぜひ力を貸してほしい」と前田氏にニトリ顧問への就任を要請。07年8月に顧問契約を結んだのだ。

プロローグ 北海道から全国へ
第1章 1998年の〈北海道現象〉
第2章 〈危機〉を乗り越えて―ツルハとニトリの並走
第3章 〈流通革命〉の旗手
第4章 究極の〈3極寡占市場〉
第5章 セブン‐イレブンも勝てなかったコンビニ
第6章 ハブ・アンド・スポーク―北海道企業の未来

突然の退場

ホーマックとDCMHDの足跡には、重要なポイントが2つある。1つはホーマックとニトリのビジネスモデルの類似性である。開発輸入の手法を通じた低価格PB商品の展開、物流と在庫管理の効率化......。先にニトリに関して《製造から販売まで一気通貫で手がけるビジネスモデルと地方企業であるという点には密接な関連性がある》と述べたが、釧路発祥のホーマックがどのようにしてトップ企業になったかを知れば、その一端を理解していただけるのではないか。 

いま、「北海道企業」が続々日本の小売り業を引っ張る位置に躍進している。ニトリ、ツルハ、DCM...なぜこれほど、北海道から「強い小売り企業」が続出するのか。北海道新聞経済部長を務め、長年業界を取材してきた著者が、その秘密に迫る著書『「北海道企業」は、なぜ強いのか』より抜粋してお届けします。 第2回は、ドラッグストアの『ツルハHD』です。 ---------- 『ニトリ』躍進の一端は、インサイダー事件で退任した名経営者との契約にあり!?  いまやドラッグストアのトップランナーになったツルハHD。その歴史は1929年(昭和4年)5月、鶴羽勝氏が旭川市内で開業した薬局『鶴羽薬師堂』(56年に『ツルハ薬局』に商号変更)に始まる。  同社の経営は、勝氏が死去した77年に2代目社長となった次男・肇氏(1932 ‒)=現ツルハ名誉会長=、97年に3代目社長に就いた三男・樹氏(1942 ‒)=現ツルハHD会長=の兄弟へと引き継がれた。  2014年に4代目社長になった堀川政司氏(1958 ‒2021)を挟んで、20年には樹氏の次男・順氏が5代目の社長に就任し、現在に至っている。  典型的な同族経営に見えるが、その企業文化を語る上で重要なのは、肇氏も樹氏も自ら進んで後継者の道を選んだわけではなかったことだ。  肇氏は京都大学医学部薬学科(現薬学部)を卒業した秀才で「本当は大学に残って研究を続けたかった」。家庭の事情で後継ぎになったものの、しばらくは自分が歩むべき人生とはどこか違うとの思いを拭えなかったという。  そんな肇氏に一筋の光をもたらしたのが、弟の樹氏だった。12年刊行の社史『ツルハの80 年』の年表に、こんな記述がある。  《S37(1962) 鶴羽樹、大阪でセルフ方式の薬局を見つける》  当時、大阪商業大学の学生だった樹氏の"発見"が、会社にとっていかに大きな転換点だったかを示すものだ。セルフ方式は、スーパーマーケットのように客が棚にある商品を自由に選び、レジで一括して代金を精算する販売方式を指す。樹氏は後年、その時の驚きを「店にこうこうと明かりがついていて、商品が整然と陳列されている。こんな薬局は見たことがなかった」と述べている。  セルフ方式なら、従来の対面販売方式のように人手をかけずに品ぞろえを増やし、これまでの"薬屋"とは違う近代的経営ができる。弟を通じてその存在を知った肇氏は、大阪の店を指導していた薬局経営コンサルタントの山口英夫氏に連絡を取り、教えを請ううちに、人生の新たな目標を見いだすことになる。  「山口さんは『お客さんには選ぶ権利がある』という理論で、そのころから低コスト、低価格の重要性を主張していた。自分は薬屋のおやじで終わるのかと悩んでいたが、山口さんに出会って『日本一のドラッグストア』を目指すようになった」。肇氏にとって、叶わなかった研究者の夢を吹っ切るには「日本一」という大きなロマンが必要だったに違いない。

アメリカで見たドラッグストアに納得

写真:現代ビジネス

 ツルハ薬局は67 年8月、北海道の薬局でははじめてとなるセルフ方式に切り替わった。その後は、低コストのセルフ式店舗を多店化して薬の販売量を大幅に増やし、山口氏から学んだ〈顧客第一主義〉の根幹である低価格を追求していく構想を描いた。  ところが2号店、3号店の出店準備を始めた矢先、思わぬ横やりが入る。「薬をセルフ方式で売ると、薬事法に抵触する恐れがある」という北海道庁の行政指導である。当時、薬局のセルフ方式の可否判断は都道府県ごとにまちまちで、大阪ではOKだったものが、北海道では認められないというのである。やむなく当面、薬は対面販売、それ以外の商品はセルフ方式というダブルトラッキングで多店化を進めざるを得なくなった。  低価格の実現も容易ではなかった。そのころは小売りの力が弱く、メーカー主導の定価販売が当たり前の時代。大幅な値引き販売を敢行し、メーカーの出荷停止処分を受けたことが何度もあったという。  日本一への道のりは前途多難だったが、それでも挫折しなかったのは、アメリカのドラッグストア業態に自らの理想を見たからだった。  肇氏は73年、医薬品販売業界のアメリカ視察に参加。そこではじめて目にしたドラッグストアの面積は約1200平方メートルと、日本の薬局のざっと10倍もあり、広いスペースの駐車場を備えていた。取扱商品は薬のほか、化粧品、健康商品、育児商品と幅広く、価格も安い。しかも、1000店規模でチェーン展開され、本部の指示通りに運営されていた。  何もかも日本の常識とかけ離れていたが、肇氏は驚くよりも安心したのだという。なぜなら、山口氏に学んだ理論通りの店が流通先進地・アメリカで展開されていることを確認できたからである。「自分のやっていることは間違いではなかった」との自信を深めたアメリカ視察だった。

4半世紀持続させたロマン

ツルハHD会社パンフレットより

 一方、セルフ方式の薬局という会社の未来を左右する"発見"をした樹氏は、その時点では、すでに兄が継いでいる家業に関わるつもりはなかったようだ。64年に大学を卒業すると、大阪の大手電子部品商社、大都商事(現ダイトロン)に就職し、それから10年余りにわたってサラリーマン生活を送っている。  そんな樹氏の人生を、今度はアメリカ視察で自信を深めた肇氏が変えることになる。肇氏は75 年に樹氏に送った手紙に《北海道で100店つくりたい。手伝わないか》と記した。  当時のツルハ薬局の店数は旭川4、札幌1のたった5店にすぎない。それを20倍に増やすなど「できっこない」と樹氏は思ったが、同時に兄の壮大な夢に心を動かされてしまうのだ。結局、勤めていた会社を辞めて76年に旭川に戻り、兄とともにツルハ薬局の発展に汗を流すことになる。  必ずしも後継者になることを望んでいなかった兄弟は、だからこそ単なる家業繁栄ありきではなく「日本一のドラッグストア」というロマンを支えに経営者の道を歩んだ。そのマインドがツルハHDの社風をつくりあげたと言っても過言ではない。  肇氏が樹氏に手紙を送ってから10年後の85年、ツルハ薬局の店舗数は目標の半分の50店を超え、売上高は85億円に達した。二人はその段階で目標を〈全国1000店、売上高2000億円〉とさらに20倍に引き上げ、「日本一のドラッグストアになる」と社内外に宣言した。  もっとも、85年における1000店、2000億円という数字が、あまりに現実離れしていたことも事実だった。なにしろ当時の業界最大手企業、コクミン(本社・大阪市)でさえ店舗数200店、売上高240億円という時代である。樹氏によれば「周囲はあきれ返った。『気は確かか』ってね」。  実際にツルハHDの店舗数が1000店に到達するのは2012年、実に27年後のことになる。ここで強調したいのは、目標の達成にかかった時間そのものではない。最初は社員でさえも本気にしなかった〈1000〉という数字に4半世紀かけてたどり着いた意志の持続力である。大きな夢やロマンを語るのは容易でも、それを20年、30年と持続させるのは、誰にでもできることではない。なぜ鶴羽兄弟にはそれが可能だったのだろうか。 ---------- 次回は明日更新。ニトリ「最大の危機」を救った銀行支店長。 ---------- ---------- 『「北海道企業」は、なぜ強いのか』は予約受付中。プロローグ 北海道から全国へ 第1章 1998年の〈北海道現象〉 第2章 〈危機〉を乗り越えて―ツルハとニトリの並走 第3章 〈流通革命〉の旗手 第4章 究極の〈3極寡占市場〉 第5章 セブン‐イレブンも勝てなかったコンビニ 第6章 ハブ・アンド・スポーク―北海道企業の未来 ----------

あらすじ・内容

いま、「北海道企業」が続々日本の小売り業を引っ張る位置に躍進している。
似鳥昭雄氏が北海道・札幌で創業し、家具・インテリア販売で日本一に君臨するニトリは、店舗数800以上、8000億円もの売り上げを誇り、35期連続で増収増益を記録。海外市場への進出も着々と進め、売り上げ3兆円を目標に掲げる。
小売業界で首位を争うのは、ニトリだけではない。
ホームセンターで10年以上にわたって業界首位に立ったDCMホールディングス。
ドラッグストアで僅差の2位のツルハ。
食品スーパー4位のアークス。
さらに、イオングループの「優等生」イオン北海道は単体で3200億円もの売り上げを誇る。
調剤薬局で売り上げ日本一となったアインホールディングス。
顧客満足度コンビニ部門でセブン‐イレブンをしのぎ、11年のうち10回の日本一に輝いたセコマ。「セコマ」ブランドの食品、菓子、乳製品、酒を製造し東京、大阪はじめ全国のスーパー、ドラッグストアで販売している。
なぜこれほど、北海道から「強い小売り企業」が続出するのか。
北海道新聞経済部長を務め、長年業界を取材してきた著者が、その秘密に迫る。
ニトリを創業した似鳥氏、ホーマックの創業者・石黒靖尋氏、アークスの横山清氏、ツルハの鶴羽肇・樹兄弟、マイカル北海道(現イオン北海道)の大川祐一氏、アインの大谷喜一氏、セコマの赤尾昭彦氏など多くの起業家・創業者が、不況下の北海道を舞台に切磋琢磨することによって、「業界トップ企業」をつくりあげてきた。
小さな部品がたった一つ欠けたことで、取り寄せるのに膨大な時間とコストを要する「小売り不毛の地」北海道。そのハンデを克服するために積み重ねた努力が、いま、本州や海外の市場に挑戦する際に北海道企業の「強み」となっている。
「夢とロマン」で駆け抜けた男たちのドラマは、読む者の胸を熱くする。
最高のビジネス書にして、熱気あふれる経済ノンフィクションの名著誕生。



プロローグ 北海道から全国へ
1 岡田卓也氏の予言
『ユニクロ』『ニトリ』の台頭
2 小売業界の主役に躍り出た北海道企業
北海道由来の2社による『島忠』争奪戦/釧路で取り組んだ〈単品管理〉/ジャスト・イン・タイムの商品供給/ニトリとホーマックは〈同志〉だった/なぜ北海道から成長企業が続出?
第1章 1998年の〈北海道現象〉
1 未曽有の金融危機下で輝いた5社
不況下でトップ企業に売り上げ集中/〈購買投票権〉行使が独り勝ち生む/ダントツ企業が5社同時に登場/脱金融依存の象徴
2 生き残った子会社、マイカル北海道
巧みな商品政策で地方百貨店を圧倒/釧路サティの成功が自信に/親会社とも戦ったプロ経営者/ビジョナリストと成果主義者/倒産へのカウントダウン
第2章 〈危機〉を乗り越えて――ツルハとニトリの並走
1 コロナ禍で躍進する〈北海道のビッグ7〉
首都圏に侵攻したもう一つの北海道企業/似鳥氏の経済予測が当たる理由/コロナ禍の半年前にECを強化/〈危機察知能力〉高めた北海道の環境
2 夢とロマンで逆境を乗り越えよ
急拡大市場で覇権争うツルハHD/家業を継ぐ気はなかったが.../アメリカで見たドラッグストアに納得/四半世紀持続させたロマン/日本一目指す"並走者"/30年計画をほぼ正確にクリア/すんでのところで命拾い/〈北海道一〉を飛び越えて/夢を達成しなければ生き残れなかった/道産子流?全国制覇の極意
第3章 〈流通革命〉の旗手
1 2010年代、〈豊かさ〉を得た北海道
チェーンストアがもたらした豊かさとは/究極の寡占市場
2 1960年代、北海道価格を破壊した"学生ベンチャー"
北海道の物価は理不尽に高かった/チェーンストア理論唱えた渥美氏/北大生協の学外店舗から始まった/「地域生協」設立へ/ペガサス理論の新たな申し子
第4章 究極の〈3極寡占市場〉
1 イオンという名の"外資"の上陸
資本の論理に敗れた"ドリームチーム"構想/重かった〈3・9%〉/抵抗2年、ついにイオングループ入り/
2 永遠の宿敵、アークスvsコープさっぽろ
"スーパー"スター経営者/「感動的安さ」支える人間力/SM業界全体の繁栄を/「横山さんと仕事をしたい」/魚かすがスーパーマーケットに化けた/代えのきかぬリーダー
第5章 セブン‐イレブンも勝てなかったコンビニ
1 絶対王者に挑む〈逆転の発想〉
顧客満足度でセブンに勝ち続ける地域コンビニ/ブラックアウト下の〈神対応〉/セブンの上を行く〈変化先取り力〉
2 〈北海道現象〉第6の企業の"急がば回れ"
ツルハと絶妙な棲み分け/調剤薬局経営の特殊性/起業家の本能/〈1580人に1人〉の異才/史上最大の番狂わせ
第6章 ハブ・アンド・スポーク――北海道企業の未来
1 過疎地のセーフティーネット
三重、四重の安全網/筋金入りの過疎地チェーン/21世紀の〈よろずや〉
2 デスティネーションストアへの道
満を持して島忠買収を発表/"後出しじゃんけん"/逆転の買収劇はなぜ成功したか著者略歴浜中 淳(ハマナカ ジュン hamanaka jun)北海道新聞社経済部デジタル委員。 1963年東京生まれ。北海道大学経済学部経済学科卒、1989年北海道新聞社入社。記者として浦河支局、旭川支社報道部、東京支社政治経済部、札幌本社経済部などに勤務。2016年論説委員、2020年札幌本社経済部長を経て、2022年7月から現職。 著書に『ルポ 生協 未来への挑戦』(共著、コープ出版)がある。

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